Okinawa Music


沖縄のうた散歩  一九九一年、夏

by 青木誠(音楽評論家)


 海と
 島と
 唄と
 この三つ。これが私を沖縄好きにしたポイントというところである。私は海が好きなので、国内旅行、海外旅行をとわず、海辺の町にいくときはきっと水中メガネ、シュノーケル、足ヒレを携帯して、サンゴ礁のリーフエッジの内側で、距離にして一キロ以内、深させいぜい五、六メートルの海中にそろりそろりと浸透して海底散歩をたのしむことにしている。カリブ海のバハマ島ではコンパス・ポイント海岸でタコを追い、名物のコンチ貝(ホラ貝)を採ってゆでてビールのつまみにしていたが、沖を遊泳するうちにどうやら同類らしいロック・バンドのACDCのメンバーとであい、水中で“ハロー”をかわしたことがある。ジャマイカ島のオチョリオス海岸では山下洋輔さんと仲良くならんで沖にでたら、山下さんいわく、「ここは海が死んでるね。沖縄はキレイだよォ」と嘆息していたのを思い出した。そのとき私はまだ沖縄では潜っていなかった。インドネシアのジャカルタ沖、はるかな海にうかぶプロウスリブ(現地語で“千の島々”のこと)に滞在したときは、リーフエッジをでた深淵で不気味な青紫に光っているイカの目玉に仰天したことがある。ほかにもハワイのオアフ島のハナウマ湾、マウイ島のカーナパリ海岸(ここはすばらしい潜水の名所だ)、そして、サイパン島がある。ここは毎年一二月になると、観光客がまばらな初旬に一週間、潜りにいくのを七、八年もつづけるうちにこの島で観光ガイドやらタクシーの運ちゃん、ダイビング教師と、なんでも仕事にしているジョン君という青年と知りあい、アホな日本の会社がホテルをぶったてたおかげで生態系がめちゃめちゃになるまえのパウパウ・ビーチでハコフグを手掴みにしたりして遊んだものである。日本列島なら、宮崎の日南海岸に夏、しばらくかよった。野生の猿がいる幸島とそのうしろに隠れた小林島は真夏でも訪れる人が少なくて、のんびり遊んでいられる。ここの岩場にはウニがゴロゴロ張りついているから、それを採って昔、ドイツのミュンヘンで買った自慢のハンティング・ナイフーENJAレコードの社長のホルスト・ウエーバーと散歩したときに買ったやつーそれでパンと割り、黄色い卵巣をしゃくり、ちょっと海水でゆがき、こぼれそうな奴をはしからつるつると呑みこんだら目がニッコリする。近年は小野リサさんの縁者がいる鹿児島県沖永良部島に一週間滞在してみると、ここは目がさめるほど海底が透明なので、やみつきになりそう。そして、沖縄とくれば、これはもう、本島のリゾートのほかに石垣島、宮古島、渡嘉敷島……手当りしだい、ゆきあたりばったり、あちらこちらの海中の光景が潮の匂いとともに思いだされてくる。
 海で遊んでいた私が沖縄の土に開花した芸能や唄にひかれたのは“照屋林助”という名を読んだときだから、もうかれこれ一五年ほどまえになる。それはこの才人の『うちなーゆんたく/沖縄の笑い芸』というレコードを聞いたときである。このレコードは師匠の芸では後期になる一九七〇年代のラジオ放送を収録したものらしくて、客席のどよめきの声がまじっている、珍品といいたいライブ盤である。その芸の珍妙、滑稽、絶妙、まったく見事、東京のはずれに住む私などが夜更けにときどきこれをとりだしてアハハと高笑いすることがたびたびであった。大和でいうなら“歌謡漫談”というところである(沖縄では日本本州を“大和(ヤマト)とよんで文化を区別する。沖縄は“沖縄”だが発音はオキナワではなくて“ウチナー”。そこで大和の人はヤマトンチュ、沖縄の人はウチナーンチュとよび、大和の言葉つまり日本語はヤマトグチ、沖縄語はウチナーグチになる)。これは芝居噺になっていて、題材は沖縄の歌劇の名作である『泊阿嘉』と『伊江島ハンドー小』からとってこれをパロディに仕立てている。話のあいだには替歌がはいり、師匠の三線に相棒のギターと太鼓が伴奏して、一九五〇年代に流行したチャチャチャなど洋楽のメロディにのせて愉快なウチナーグチの歌詞がうたわれる。なんともトボケて、おおらかで、やたらオカシサがこみあげてくる芸である。昨今の大和の芸は、東京でも、大阪でも、やたらセカセカして、話がだんだんクレイジーに燃えあがるのを“笑い”としているが、師匠のはマジメに語れば語るだけ可笑しさがますという、つまり師匠の存在そのものが滑稽という、芸能の本質を衝いたもののように私には思える。もっともそんな分析はあとからでてくることでとにかくひたすらオカシイ。こんなふうにはじまる。

 いまは昔の恋物語、樽金と思鶴のお話は、芝居のほうでも有名でございますが、
 あちらはユクシムニーでございまして、私のほうが本物です。

“ユクシムニー”は大和でいうなら“偽物”ということと岩永文夫君の解説に書いてあるが、じつに語呂のいい単語なので、しっかり記憶にのこり、それから一〇年して師匠にはじめて会ったとき“あのユクシムニーがおかしいですねエ……”とひょいと口をついてでてしまった。この録音は放送局のスタジオか、ひょっとしたら民謡クラブのライブとも思われるざわめきがひびいていて、ぎっしりつめかけた客席から師匠のひと言ひと言に爆笑、哄笑がわき、そのどッと笑う底抜けにあかるい声を聞いていると、これこそ芸能と音楽評論家は夜更けにうれしさがこみあげてくるのである。大和の歌舞伎やシェークスピアの戯曲だって昔はこういう舞台と客席の息のあった交感のなかで演じられたにちがいないのに、いまではキマジメな顔で“鑑賞”するものと勘違いされている。芸能は芸を演じる人とその芸を見る人、ヒトとヒトとのゆたかな交感から成立するはずなのだが、いまではヒトの交感は遮断され、芸をモノとして、“芸術”として、見ることしかしなくなった。なんとも砂を噛む思いである。師匠の芸には沖縄のゆたかな海や空の光景がひびいているが、そこでは空間や時間を切り刻んだあげく心が貧しくなったヤマトンチュが笑われているようでもある。
 一九九〇年という年は沖縄がにぎやかだった年である。喜納昌吉が七年ぶりで新譜をだしたし、「りんけんバンド」がようやく初CDを発表したのがこの年である。このバンドのリーダー、照屋林賢君のお父さんが照屋林助師匠になる。活発なうごきがあるものだから私もあちこちの雑誌で沖縄の記事を書いたり、インタビューしたり、急に沖縄づいたのだが、その年があけて翌年、一九九一年一月のこと、ある雑誌の取材で沖縄の林賢君のスタジオを訪ねることになり、
そこで事前にそのさいは、ゼヒ、ゼヒ、お父さんに声をかけていっしょに食事しましょうよ、とお願いした。かくして林賢君の取材をすませたその夜にコザのデイゴホテルの座敷で私ははじめて照屋林助師匠ご本人とむかいあって座についたのである(“コザ”は現在の沖縄市の旧称だが、昔を知る世代としてはこちらのほうがずんと実感がわいてくるので以下コザと呼ぶことにする)。
 みんなが席につくと、丸顔、丸坊主の巨躯をどっしりと構えた師匠はよこで注文を催促する
ウエイトレスに
「そうだねェ……」
 考えこむ様子。
 私が
「泡盛は一本、たのみました」
 というと
「では、私はコーヒー割りにしてください」
 とすました顔で答えた。
「ハア?!
 ウエイトレスは当惑ぎみ。
「なに、なければインスタント・コーヒーをいっしよに持ってくればよろしい」
 そこでネスカフェの大瓶がテーブルに置かれたので、どうするのか、私が注目していると、師匠、これまたすました顔でコップについだ泡盛にインスタント・コーヒーの粉末をまぜて、
お湯をそそぎ、スプーンでかきまぜはじめた。いかにも師匠らしい、不思議な、謎の呑み方である。
 もう五〇年近くも昔、一九五〇年代後半のことだが、師匠がはじめた珍妙な「ワタブーショー」は沖縄全土の人びとが腹をかかえて大笑い、年配のかたならいまでも“てるりん”さんの愛称で親しまれているのがこの人物である。私が聞いたレコードはその録音なのだ。しかしてるりんさん、いまはコザの名士になられて、日曜日の沖縄タイムス紙に連載する「タイムス狂歌」は一四〇回、通算五四〇〇首をかぞえるし、そのほかテレビ、ラジオ、映画、講演といそがしく、ときおりはテレビCMにまで顔をだされている。
 とつぜんこんな質問をされた。
「大和ではニワトリはどう啼きますか?」
「コケコッコですが……」
「それは何か意昧がありますか?」
「さあ。ない、と思います」
「沖縄のニワトリは“タッタウェキー”と啼くんです。これは何かというとネ、ウチナーグチで“だんだん金持になる”という意味なんです。沖縄のニワトリは“金持になる”と啼くんです。ですから『早起きは三文の得』という諺がありますが、これは沖縄では早起きしてこのニワトリの啼き声を聞きたいという、ちゃんと理由があるんです」
 どこまでホントかそれとも冗談なのか、ひょっとするとキマジメなヤマトンチュをからかっているのか、見当つけにくい話を真顔でやられてしまった。この夜は夜更けまで師匠のこの手の愉快でためになるお話をうかがい、おかげで私はすっかり昂揚しちゃって、近いうちにきっと東京のテレビかラジオ、どこかに師匠をかつぎだします、よろしいか、と念をおした。
 別れぎわにふと思い出したことがあった。
「いつも泡盛はコーヒー割りでお呑みになりますか?」
 すると、師匠、カラカラと高笑い。
「いえ、私もはじめてです」
「エッ。どうして、また」
「なーに、ぼくはいつも何か人とちがうことしたくてね。あなたは初対面でしたから、何をしたらおどろいて、よろこんでくださるかと考えて、思いつきでコーヒーにしただけです。こんなもの、うまいものですか」
 キマジメなヤマトンチュはのっけからカモにされていたのだ!

 三月になり、あるテレビ局が沖縄を紹介する番組をつくりたいと相談してきたので、私は内心ほくほくとよろこんだ。局のプランによると、売出し中のバンド「上々颱風」を主役にして、メンバーが沖縄各地を歩いてめずらしい風景に驚嘆する、というシナリオである。上々颱風ならリーダーの紅龍君とちょっとおつきあいがあるからよろしいが、沖縄紹介とくれば現地のガイド役がいなくてはならない。それについてはここにてるりん師匠という怪人物がいらっしゃる。この人物の出演をOKしてくれるなら協力するIと、まあ、脅しをかけると、テレビ局もこれをおもしろがったので、早くもいつぞやの約束がはたせることとなった。このシナリオがなかなか豪勢なもので、上々颱風(紅龍君とボーカルの恵美ちゃん、里ちゃんの三人)、てるりん師匠、スタッフ大勢の一行がヤンバル(山原。沖縄北部のこと)の奥間ビーチを出発点に那覇、コザと車でおりてきて、つぎに飛行機にのって石垣島、宮古島をまわるという、四月三日から一三日まで一〇日におよぶ大撮影旅行である。つまりこの一〇日間、私はてるりん師匠といっしょに沖縄旅行ができるというまたとないチャンス。
 沖縄本島の、ヤンバル入口になる北の名護市から南の那覇市までずっとつづく国道五八号線はこの島の背骨といいたい幹線道路になっているが、ここを車で走っていると東京ではお目にかかれないめずらしい光景が目にとびこんでくる。

ヤシの並木。
左右にひろがる米軍基地。
国道の左側から右側へ、手のとどくほどの頭上を轟音をとどろかせて横切って飛んでいく米軍ジェット爆撃機。
歩道をジョギングしている米兵。
にぎやかな英語の看板(「FURNITURE SHOP(家具店)」「REPAIR(修理)」「HOUSING(不動産屋)」
 「CLINIC(診療所)」― 粋がってつけてるわけじゃないゼ。外人にわかるための標識なのだ)
山羊料理店。
豚を満載したトラック。

 まるで外国を走っているような風景に目と体をなじませながら、私は車内でてるりん師匠との会話に熱中した。あたりの景色といっしよになった師匠の話を聞いていると、裸足の足の裏に沖縄の土を踏みつけているような思いがする。
「“ふりむん”という言葉がありますがネ。これは自分のために一生懸命になるという人のことです。世のため人のためではない。自分のことだけ一生懸命やる……これがてるりん哲学です。大和の人は、人のため、国のために一生懸命になるようですが、私は自分のためにだけ一生懸命になる。そうするとまわりまわって国のためにもなる、そういう考え方、これが沖縄です」
 とか
「“チャンプルー”という言葉は“ごちゃまぜ”というような意味でね、野菜やら肉やらまぜこぜに炒めた料理の名前でもありますが、沖縄の芸能の本質はこのチャンプルーにあるんです。中国からきたもの、大和からきたもの、アメリカからきたもの、外来のものを拒まず、何でも取入れてしまうんだね。……というのはどこよりもおもしろい芸能をつくりたいという気持、これがチャンプルーの原点でしょうね。農耕文化がつくりだしたものです。わけのわからないものも神様はよろこばれる、そう信じているんです。めずらしいもの、変ったもの、あたらしいもの、これを神様はよろこばれる。沖縄では神様は笑い声が好き、とされますから、祭りになると、村の剽軽な人が滑稽なせりふやおもしろい芸でまず神様を笑わせておいて、神様がよろこんでいる隙に願いごとをたのんでしまう。つまり騙してしまう。それが沖縄の芸能のはじまりです。神様に見せる芸というのがはじまりです。よろこぶ神様は“ミルク”といって、これ、弥勒菩薩なんだけど、みたところは大和でいう布袋さまなんだネ。どこかでとりちがえちゃったらしい(笑)。本来神様に見せる芸能がいつのまにか権力者に見せる芸能にだんだんなってくるんですが、そうなると、これはどうも……。首里や那覇の神様は伝統を大事にするようですが、芸能が“芸能論”になってしまったらおしまいです。芸能は芸能でなければ、つまり人をたのしませることができなければ、おしまいです」
 とか。
 これは余談になるけれど、このときではなくて、いつぞや私が一人でタクシーにのったときのこと、運ちゃんに、那覇とコザ、住民の気性がちがうかネ、とたずねると、五〇がらみの寡黙な運転手は
「コザは不良ですね」
 とポツリと答えた。
 そして、少しあいだをおいて
「でも那覇よりも沖縄らしい」
 言葉は少ないが的確に描写した。
 沖縄の町のなかでもコザは特異な町で、ここの住民は何事にも糞マジメに対処するということがないから、運ちゃんがいうように不良に見えないことはない。てるりん師匠などは不良もいいとこである。さらに那覇はどんどん大和に近づいていくのにコザはその独自な文化を捨てないよう心がけている。そこでかえって那覇よりも沖縄らしさがのこっているようにもみえる。沖縄民謡の中心地がコザである。歌が豊富なことではおそらくヤンバルにかなわないとみられるが民謡クラブはコザに集中しているし、名手も数多い。いっぽう那覇や首里は沖縄古典音楽の中心地で、古典の名手はあちらに数多い。ことのついでに書いておくと、コザの銀座は白く清潔なショッピング街、パークアベニューだが、ここは昔、アメリカ占領時代にセンター街とかBCストリート(BCはビジネス・センターの略)とかよばれて嘉手納空軍基地の米兵向けのバーやクラブが軒をつらねた紅燈街だったところで、この通りが民謡ブームの発火点になり、また沖縄ロックの発火点にもなった。てるりん師匠の弟さんが経営する照屋楽器店がこの通りにあり、その裏には照屋三味線店と師匠の“てるりんハウス”、とくに“てるりんハウス”には観光バスが週一回とまって師匠の芸を生で聞ける“ミュージアム”になっている。その近くにあるデイゴホテル、これがてるりん師匠をたずねる遠来の客の常宿である。このホテルは昭和四一年(一九六六)に米兵向けシングル専門のホテルとしてたてられて嘉手納空軍基地の兵隊や将校が基地の宿舎をでたあと、たとえば帰国のさいにここに宿泊するのを常とした。昭和五〇年頃からは家族で泊るケースもふえたし、現在は日本人も利用するが、いまでも食堂の片隅で米兵一家がつつましく食事していたり、明日帰国する米兵の奥さんがホテルの従業員と別れを惜しんでいる光景が見られて、たいそう微笑ましい。柳田国男も泊ったし、野坂昭如も泊った。なにしろベーコン・エッグの朝食がコーヒー飲み放題で六〇〇エンという気安いお値段だから貧乏音楽評論家にはありがたい。
 余談はさておき。
 このテレビの撮影旅行は石垣島にいったときがハイライトである。テレビ屋さんのシナリオにしたがってまずタクシーで白保海岸までドライブし、そのひろびろしたうつくしいサンゴ礁の浜を牛がひく荷車に上々颱風のメンバー三人とてるりん師匠をのせ、ちゃぷちゃぷ、のんびり、歩かせよう、そういう趣向。
 海岸にむかうサトウキビ畑のなかの一本道を走るタクシーで、師匠が運転手にたずねた。
「このあたりではサトウキビは何というかネ」
「私ら“シッチャ”といってますね。石垣ではシッチャです」
「あ、そうネ」
「これからいく白保では“アンピシャ”といってるようですが」
 そこで私。
「沖縄本島ではどういいますか」
 師匠。
「“ウージ”、ですね」
 本島では“ウージ”、石垣市では“シッチャ”、白保では“アンピシャ”、この南国の特産物がおなじ沖縄県なのにところによりこれだけ名が変るというのを勉強した。この話題をだされた師匠はここでは一人の博物学者なのであった。
 白保海岸につくと、足を海水にひたして浜を歩く牛とその手綱をとる御者がいまはもういないという話で、あらわれたのは近くの農家の隠居で自称九〇歳というご老体、七〇までは数えたがそれから数えないことにしてマスといってカラカラ笑うこのオジイサン、高齢ながら潮風できたえたかくしゃくたる体躯の持主である。むずかる牛をなだめたりすかしたり、なんとかこのシーンを撮りおえてご苦労さん、となったとき、このご老体、ひょいとてるりん師匠の三線をとりあげると、塩辛声の、見事な調子でうたいはしめた。「十番口説」である。これがサンゴ礁の浜と快晴の青空にじつによく溶けてなんともうららかな気分である。これにはびっくりさせられた。さすが島の人である。
 ところで沖縄には大昔から“モーアシビ”という娯楽がある。“モー”は野原、“アシビ”は遊びだから、これは野原の遊びということになる。娯楽の少ない島なので村の青年たちが夜更けになるとどこかの原っぱにあつまり、誰かの三昧線にあわせて順ぐりに民謡をうたい、踊りをおどるのを、ただ一つの娯楽にした。沖縄民謡のうちで早いテンポのいわゆる“カチャーシー”とよばれるのはほとんどモーアシビをにぎわせた歌である。ウチナーンチュにいわせるとモーアシビはつい戦後までありましたよ、とニコニコ自慢するのだが、さすがにいまは娯楽に事欠かないのでまったくみられない。
 てるりん師匠は
「昔、モーアシビ、今、バーアシビです」
 といわれる。
「昔は原っぱで遊んだけど、今はバーで遊ぶ。遊び方が変っただけ、心はいっしょです。なに、遊びたい人はどんなことしてでも遊ぶということだね」
 さぞかし沖縄ではカラオケが盛んなことだろうと、私は想像している。
 石垣島の石垣市には師匠の弟子筋にあたる宮城さんという人物がいらっしゃって「トゥバラーマ」という民謡クラブを経営している。そこでテレビ屋が宮城さんと相談して、店の近くの海岸でみんなでモーアシビならぬハマアシビをしているところをレンズにおさめようと、話がもちあがった。これを聞いた宮城さん、ここらではいまでもときどきやってますから、慣れたもんです、という心強い返事。準備万端、食べ物、泡盛から歌い手、弾き手、遊びの人員、すべて宮城さんにおまかせすることにする。
 某日。夕刻。夕陽にむかって浜に大きなゴザを敷き、火をぼんぼん焚き、バーベキュー用のでかい鉄板に肉と野菜をじゃんじゃんのせて、ジュウジュウ焼き、まわりにあつまった二〇人ほどのお店の常連、上々颱風、てるりん師匠、宮城さんご夫婦、みんないっしょになって、さあ呑め、さあうたえ、さあ踊れ、壮大な野宴がはじまる。誰かが三味線をひき、奥さんが太鼓を叩く、みんなで順ぐりにうたって、宮城さんもうたった、てるりん師匠もうたった、上々颱風の三人は踊った……これは、まア、優雅と卑猥、繊細と放埓、細心と豪放、両極端が共存して、四角四面のヤマトンチュなら一生に一度体験できるかできないか、ひたすらうれしい、さながら竜宮城のパーティというところである。やろうと思えばこんなことがいつでもできる島というのはほんとにうらやましい。陽が落ちておひらきとなるとそのあと宮城さんのお店「トゥバラーマ」にもどって呑み直しする。店内のすみにある小さな舞台に常連の客が入れ替りたち替り登場すると、宮城さんの三線と奥さんの太鼓にあわせてカラオケならぬオケバン民謡大会である。今夜のお客さんをながめてみると、そこにいるのは会社の部長、部下の若いOLさん、小学校の校長、さまざまな人種がいらっしゃるのだが、みなさんつぎつぎうたう見事な八重山民謡を聞きながら、奥さんが昼間海で採ってきた海藻のサラダをつまみに食べていると泡盛がじゃんじゃん喉にすべりこむ。
 まあ一杯
 あと一杯
 もう一杯
 そらきた一杯
 こうなりや一杯
 ええい、あと一杯……。
 呑むほどに、酔うほどに、てるりん師匠の冗談がよろけてくる。私の知人が写真雑誌の「フォーカス」の編集部にいて、いつだったか都はるみさんがこんど大阪のライブ・ハウスでうたうわよと耳うちしてくれたので独占記事を売りこんだ、という話題をだすと、師匠、すかさず
「沖縄ではネ。女のあそこを○◎□といいます。だからサ、“フォーカス”などといおうものなら“○◎□貸す”ということになっちゃうからね、あの雑誌、あまり売れとらんのとちがうかな。アハハ」
 とか
「『昴(すばる)』という歌がありますが、“スバル”いうたらオシッコのことだからね。ああいう歌はあまり流行らんネ。沖縄では。アハハ」
 とか。
 読者諸姉兄、これは泥酔したうえの戯れごとですから、ここだけの話にしてすぐ忘れてくださるようお願いします。現状分析や文化論とはほど遠いものです。
 どこかで誰かがさよならをいい、どこかで誰かに挨拶されて、気がつくと部長も校長もOLも、上々颱風までいなくなり、てるりん師匠と私だけが泡盛のコップを放さずにいた。それからベロンベロンの私がベロンベロンの師匠の巨体をタクシーに押しこみ、ヴィラ・フサキ・リソートまでおつれしたのだが、師匠の体の重みはまるで沖縄そのものの重みであるかのごとく、いまも感触としてのこっている。
 本島にもどると、こんどはコザの民謡クラブをハシゴした。店は夜一〇時すぎに開店するので、食事をすませてから頃をみはからってでかけた。「花ぬ島」、「なんた浜」、「姫」、どこへいっても師匠は大歓迎され、かならず舞台に呼びあげられてうたわされる。こういうお伴はじつにうれしいものである。「花ぬ島」で舞台に立つのは神谷幸一さんとおっしゃり、この人、琉球民謡協会コザ支部の副支部長である。ところがてるりん師匠に聞くとこのご仁は津堅島で広大なにんじん畑を耕作し、嘘かまことかさだかではないけれど、沖縄のにんじん生産量の六〇パーセントを生産している。おまけに民宿をやり、観光みやげ物店をやり、遊覧船を所有し、夜ともなるとコザに持つこの民謡クラブの舞台でうたっているのである。ああ、たのしきかな人生!

 「姫」の舞台にたっていたのはどこかの町の町長だというし、「なんた浜」のは麩の会社の社長と教えられた。その粋なうたいぶりを聞いていると昼間の仕事の進め方までなんとなく想像つくというものである。さぞ頭を悩ますことだってあるだろうに、けして深刻にならず、南国の太陽のようにあかるく、ちっちゃいことなど気にせずに、のんのんずいずい事業を進めてらっしゃるのではないか。
 てるりん師匠は
「沖縄では歌にまさる享楽はないんです」
 そうおっしゃる。
 インドネシアを旅したときだが、あるジャーナリストから「我国で流行ファッションというときは、衣服でも化粧でもなく、音楽です。どんな音楽を聞いているか、それが我国の若者のファッションです」と聞かされたことがあった。私はインドネシアがブラジルにつぐ音楽大国と信じているのでその理由がこれで判明した気になった。インドネシアもブラジルも、我国に流れてくることはめったにない、地元の歌をたくましく成長させている。つい先頃、ハワイに降りたら旧友のニック加藤いわく、ハワイのヒットチャートの上位にあるのはこの島の歌です、といささか自慢気である。土地の香りが土地の人だけにかぐわしい歌があるのは当然だが、時間に縛られず、土地を切り刻まず、沖縄はひたすらゆたかにその生を謳歌する歌をよく生産している。それとくらべると大和などは音痴の国といえるのじゃないかと思う。音楽はせいぜい大都市の狂騒に緊張しきった心をほぐすBGMでしかないから、それが人生を語る深い味わいも、笑いにまぎれてチャッといってのけてしまう風刺も、またそれに身をまかせる悦楽や、魅せられたあげくあてどなく堕ちていくほの暗い地獄についても、何一つ、知らないのではないかと思わされる。
 沖縄に学ぶことは多いのだ。


 改訂版のための追記
 これは一九九四年に書いた原稿である。それまでの一〇年を、私は“南”の国をしげしげと歩き回っていた。アフリカ、ブラジル、ジャマイカ、バハマ、それと、東南アジアのインドネシア、マレーシア、タイ、シンガポールなどである。その前はというと、ヨーロッパと北米ばかり、最新のポピュラー音楽を血まなこになって追いかけていたのとくらべると、この季節は音楽とヒトの関係、そのルーツ探しに奔走していたことになる。
 さいごに沖縄にたどりついた。私の沖縄探訪は八五年にはじまるが、ここに書いた九〇年の旅は、沖縄の奥を覗いたという点で、ほとんど「未知との遭遇」といっていい衝撃があった。門がひらいたのであった。あとあと事情がわかってきて読み直してみると、細部に不備もあるけれど、初心のおどろきはおどろきとしてのこしておきたいので、手をくわえず、そのまま掲載することにした。
 





出典:「沖縄うたの旅」(ボーダーインク刊)

SPECIAL THANKS:青木誠新城和博 (ボーダーインク)